漫画「バガボンド」に学ぶ執着しないで生きていく方法

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はじめに

宮本武蔵が天下無双を目指す一部始終を描いたバガボンド」という漫画。

その漫画の1コマに武蔵と板倉勝重(奉行人)という人物のやり取りがある。

そのやり取りの中には、人が執着を持たずに生きていくヒントが隠されているように私は感じた。

そこで今回は漫画「バカボンド」から執着しない方法を学んでいきたい。

宮本武蔵板倉勝重

このやり取りは武蔵が吉岡一門70名との死闘をくぐり抜けた後に、武蔵の元を訪れた板倉勝重との間で行われたものである。

以下は両者の会話を漫画から抜粋したものだ。

 

(板倉)昨日おぬしと相対したとき このわしの心のうちにもいくらか生じたのがわかった

 

(武蔵)何が...?

 

(板倉)わしも剣は人並み以上に修めてきたが いやだからか

「強さ」においてわしの知らぬ境地にいるおぬしに対する 引け目

 

(板倉)それを見せずに済むのは年を重ねたからだ

 

(板倉)引け目 それ自体は心に生じた小さな波にすぎぬ

 

(板倉)不安の方へ振れれば心は閉じる

見まいとして固く閉じた心の中では不安はやすやすと恐怖にかわり敵意へと育つ

 

(板倉)そのまた逆も厄介だ 崇拝する 同化したがる

寄りかかって執着のできあがり 目も心も開いているようで閉じているのと同じ

 

(板倉)強ければなにをしてもいいのか?違うよなぁ

 

(武蔵)あのー何か話が難しくてよー分からんのですが...

 

(板倉)おっ?スマン ハハ

昨日気づいたんで早く言いたくて まくしたててしまった ハハハ

 

(板倉)別れ道はいつも心のうちにあるわな

 

(板倉)真ん中がいちばんいい

 

(武蔵)・・・それは分かります

 

(板倉)・・・また引け目が 真ん中真ん中

執着を生むものとは?

板倉勝重は武蔵と相対し、「己の中に引け目が生まれた」と認めた上で、「引け目が生じることは問題ではない、しかしその引け目に囚われてしまうと今度はそれが執着へと変わってしまうから厄介だ」と、執着が生まれるメカニズムについて語っている。

さらっと書かれてはいるが、これは執着の本質を的確に捉えている。

つまり、執着とは、物事を通じて生じた感情によって生まれるのではなくて(むしろそれは誰にでもあるものだと認めた上で)、それを認めようとしないあるいは過剰に認めようとする自らの心の働きによって生じると言ってるわけだ。

 

もっと分かりやすい例を挙げてみよう。

貧乏な男がいる。男はそれが嫌で嫌で仕方がなかった。そこで男は「金なんて必要ない」「世の中金が全てじゃない」と考えることにした。

貧乏に対する引け目を感じないようにしたわけだ。

すると、どうなるか。男は金を過剰に嫌う(意識する)ようになって、歪んだ考えを持つようになった。

これは執着である。男は金がないという現実を見ないフリをしているだけで、結局は金のことしか考えていない。まさに金に執着した状態といえるだろう。

では、逆に「金を持っている人間は偉い」「世の中金が全てだ」と考えるようになればどうだろうか。

これは逆に金を過剰に評価しているが、金にしか意識が向いていないという点では同じ。

これもまた金に執着している状態だといえる。

いずれにせよ、男は金という1つのものに心が囚われていて全然自由ではない。

真逆に見える捉え方でも、結局行き着く先は執着に変わりはない。それをあの短いやり取りの中で作者は表現しているのだ。凄いとしか言えない。

執着しないで生きていく方法

その上でさらに板倉は、人が執着に振り回されない秘訣として「真ん中がいちばんいい」という見解を述べている。

ちなみにそれに対して武蔵が「分かります」と言って、さらに板倉に引け目を感じさせているのがなんか良い。この場合の引け目とは武蔵が若くしてすでにその境地に至っていることに対するものだと私は解釈した。

 

では、その真ん中とは何か。

前後の文脈から考えれば、感情を見すぎるでも全く見ないようにするでもない、ちょうど中間にある心ということになるだろう。

であるならば、その中間に心を留めておくのが執着しない方法ということになる。

これは一見単純そうに聞こえるが、実は非常に難しくて奥が深い。

なぜなら心の真ん中を確認する方法は存在せず、あくまで個人の感覚の上での話であるから。

実際、その真ん中が見つけられなくて武蔵は旅を続けている。そもそも見つかるかどうかすらも分からない。

また、意識さえしておけば執着せずにいられるのかというと、そうとも限らない。執着しないでおこうとするその心がすでに執着を生んでしまっているからだ。

何となくイメージはできるものの、実際にその境地に至ることは困難を極める。それが作中でいう真ん中であり、おそらく無我の境地というものなのだろう。

ただ少なくとも言えるのは、執着しそうになった時あるいは執着していることに気づいた時は、板倉勝重が「真ん中真ん中」と心を御したように、心の真ん中に意識を向けてみることで少しは心が自由になるかもしれないということだ。

以上。