儒教が必要とされる時代

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はじめに

この度、『大学』『論語』『孟子』『中庸』の4冊を読み終えた。

これらの本は儒教の教典である「四書五経」のうちの四書に数えられている。

教典全てを読破したというわけではないが、今回の読書体験を通して、儒教がどのような思想でどういう時代にマッチするかみたいな部分は大方把握できたかなと思う。

そこで今回は「儒教が必要とされる時代」と題して、儒教の特徴やその時代性について考えてみたい。

儒教の特色

儒教は、孔子を始祖とする思考・信仰の体系。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上に亘り強い影響力を持つ。中国では、哲学・思想としては儒家思想という。儒教は、五常(仁・義・礼・智・信)という徳性を拡充することにより五倫(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)関係を維持することを教える。ウィキペディアより引用

仏教などの宗教色の強い哲学とは違い、儒教は政治色が強い哲学だといえる。

その証拠に、インド思想ではほとんど語られることのなかった政に関する話題が儒教の教典には頻繁に出てくる。

これはそもそも中国という国が宗教より政治を重んじることが主な理由らしい。

中でも儒教は、「統治者の何たるかを教えるための学問」と言っても過言じゃないほど、支配者層に向けて説かれた教えという色が強い。

儒教では支配者がうまく統治を行うためには、「人間の善なる特性を全面に押し出すこと」が大事だとしてる。

孟子はこれを王道政治といい、反対に武力や権力に基づいた政治を覇道政治と呼んで非難した。

その主張はともすれば「理想論」「意識だけ高い」と揶揄されるかもしれない。

しかし、儒教が栄枯盛衰を繰り返しながらも現代まで受け継がれていることから、多くの人間にとって必要な思想であることは間違いないだろう。

 

重要なのはむしろどの場面で使えるのか。

使い所さえ分かれば、同じような状況が訪れた際に教訓として活かすことができる。

というわけで、以下からは私の独断と偏見で儒教と各時代の相性について見ていくことにした。

戦国時代との相性

まずは戦国時代。

儒教と戦国時代の相性は...最悪と言っていいだろう。

戦国時代というのは食うか食われるかという極限状態。

いつ寝首を掻かれるやもしれず、臣下のことですら信用することはできない。

そんな中で仁義だ徳だなどと言っても誰も耳を貸しはしない。なんならそう主張している間に刺されてしまうかもしれない。

残念ながら、生きるか死ぬかのサバイバル状態では儒教の出る幕はない。

実際、戦国の世に生まれた孔子は色んな王の元へ自説を持って赴いたらしいが、1度として迎え入れられることはなかったという。

君主制との相性

続いては君主制

君主制儒教の相性は...すこぶる良い。

君主制ではすでに統治が済んでおり、武力衝突に発展する心配がほとんどない。故に戦国時代のような二の舞になることはないだろう。

謀反にだけは気を付けておく必要があるが、それ以外、特に民衆に対してはじっくりと教えを布教していくことが可能となる。

ここからが儒教の本領発揮である。

誰にとっても聞き心地のいい主張で民衆の心を掴むと同時に、上に逆らわず滅私奉公する精神を教え込むことが出来る。

儒教の持ち味が発揮されるのはこの瞬間をおいて他にはないだろう。

その結果、徳川幕府のような息の長い政権が実現するかもしれない。

(実際に儒教は徳川政権下で採用されてきたという歴史がある)

経営者との相性

論語は経営者必読の書」と評されることがある。

というわけで、続いては儒教と経営者の相性を見ていこう。

この相性は...場合による。

経営者はある意味で君主のような存在だが、必ずしも儒教と相性が良いとは限らない。

会社の規模や経営状況によって相性が変化するからだ。

例えば大企業のように体力のある会社ならまだしも、スタートアップのような規模が小さい会社の場合、戦国時代と同様にその精神を根付かせている余裕がない。

なんとしても日銭を稼がなけばいけない場面や綺麗事ばかり言っていられない場面があるからだ。

人を大事にすることで周り回ってチャンスが訪れることもあるかもしれないが、その前に会社が立ち行かなくなってしまったら本末転倒もいいところだろう。

経営はあくまで金を稼ぐという目的が最優先であり、政治とはまた少し違う。

そう考えると、『論語と算盤』みたいなことを素人考えで安易に取り入れるのはかえって危険なのではないかとすら感じる。

現代日本との相性

最後は現代日本

現代日本儒教の相性は...そこまで悪くない。

実は知られていないだけで、日本人は儒教の影響を少なからず受けて育っている。

お中元やお歳暮などの年中行事を始め、年長者を敬うという倫理観も元々は儒教から来ているし、江戸時代には徳川家康の文教政策として儒教が広く取り入れられてきた。

また、なんなら儒教は仏教よりも早く日本に伝えられていたりする。

それくらい日本人と儒教は切っても切り離せない関係だと言える。

 

では翻って現代の日本ではどうか。

現代の日本は資本が力を持ち過ぎて歯止めが効かなくなっていたり、テクノロジーの発展が目まぐるしかったりするなどして、人間的な持ち味、特に儒教でいう仁義や礼などといった人間の善の側面が蔑ろにされているように感じる。

確かに便利なのは悪いことではないが、秦の始皇帝が思想を法家に統一するために焚書坑儒を行い民衆から反発を喰らったように、人間には無味乾燥な法律やテクノロジーだけではなく、そういう善なる心を信じたいという感情があることも忘れてはいけない。

綺麗事に聞こえるかもしれない。

しかし、現代に至るまで儒教が歴史的に信仰されてきたのはそういう一面があったからこそではないかと思う。

統治者にとって都合が良いツールとしてだけでなく、多くの人にとって心の拠り所となるような宗教的な一面を儒教は持ち合わせているのかもしれない。

そして現代日本においては、儒教を取り入れれば万事解決とまではいかないまでも、ともすれば現状の閉塞感を乗り越えるきっかけになり得るかもしれないと思った次第である。

以上。