完全な自由は完全な不自由。エンデ『自由の牢獄』を読んで

イースタン州立刑務所, アル・カポネ, フィラデルフィア, 刑務所, 史跡

はじめに

ミヒャエル・エンデの『自由の牢獄』を読んだ。

漠然と自由を求めていた私のような人間にとって、本書の内容は衝撃的で、どうやら自由とは何かを改めて考え直す必要がありそうである。

というわけで今回は本書を紹介しつつ、自由について再考していきたい。

『自由の牢獄』あらすじ ※ネタバレあり

本書のあらすじは、

主人公のインシアッラーが、以前に体験した奇妙な出来事について教主に向けて話すというもの。

その中で読者は自由というものの本質に気が付くことになる。

 

その内容を簡単にまとめてみよう。

ある晩、インシアッラーの前に美女が現れる。美女はインシアッラーを誘惑し、彼を精神世界に飛ばしてしまう。

そこへ正体不明の声の主が現れ、「ここは神の意志が介在しない、完全に自由な世界だ」と説明する。

声の主はさらに目の前に無数に存在する扉を示し、「どの扉でもいいから先に進みたいなら開けて進め」と語った。

(この扉がいわゆる無限の選択肢であり、彼の置かれた状況が自由そのものを表すメタファーというわけだ)

 

インシアッラーはその無数の扉を前に途方に暮れてしまい、結局何も決められなくなってしまう。

悩んでいるうちに時間は経過し、インシアッラーは次第に投げやりになって何も感じなくなり、何もしようとしなくなる。

彼はもはや何も望まず、何も恐れず、何も避けなくなった。死のうが生きようが構わず、名誉も恥も関係なく、富も貧困もどうでもよくなってしまった。

すると不思議なことに扉の数が減り始め、最終的に全ての扉が消え失せてしまう。

そこでインシアッラーは悟った。

 

この上もなく慈悲深き、気高き、尊き者よ、ありがたいことだ。自己欺瞞をことごとく退治し、偽りの自由をわしから奪ってくれた。もはや選ぶことができず、その必要もなくなった今、自己意志に永久の別れを告げ、不平不満をもたらすことなく、理由も問わず、あなたの聖なる御意に従うことがやっとたやすくなった。わしをこの牢獄へ導き、この壁の中に永久に閉じ込めたのがあなたの御手ならば、わしは満足しよう。われら人の子は、盲目というご慈悲が与えられぬかぎりは、とどまることも去ることもできない。盲目とはわれらを導く御手。わしは自由意志という妄想を永久に放棄しよう。自由意志とはおのれ自身を食らう蛇にほかならないからだ。完全な自由とは完全な不自由なのだ。平安や知恵というものはすべて、全能にして唯一の者、アッラーのもとにだけあり、そのほかは無にすぎない(本文より抜粋)

 

そう言い終わったのち、インシアッラーは自分が現実の世界に戻っていることに気づいた。

 

以上が本書の内容となる。

かなり省いて説明してしまったので、本書の意図を正確に伝えきれていないかもしれない。

ちゃんと理解したい方はぜひ本書を手に取っていただきたい。読んで損がないことは保証する。

自由は存在しない

この物語は、非常に含蓄に富んでいる。

上記で説明していなかったが、インシアッラーはもともと自分自身の能力や賢さを過信して調子に乗っていた。

そして、なんだかんだあって彼は自由という牢獄にぶち込まれ、自分がいかに愚かで間違っていたかを悟り、考えを改めるのである。

そこに寓話的な教訓が含まれているのは誰の目から見ても明らかだろう。

だが、本質的なメッセージはむしろ、インシアッラーが「完全な自由は完全な不自由」といった部分にあるように感じる。

これは言い換えるなら「自由は存在しない」と表現しているようなものだ。

作中で直接そう表現されてはいないものの、完全な自由がイコール完全な不自由である以上、原理的に自由は成立しないということになる。

そして、そこにこそ自由というものの本質が隠されているような気がしてならない。

 

つまり、人間が“自由”と呼んで追い求めているものは、最初から存在しない概念なのではないか。

人類は自由を目的に進歩してきたと言っても過言ではないが、もしかするとそれは逆に不自由に向かって突き進んでいただけなのではないのか。

それにも関わらず、我々は自由という幻想に取り憑かれて自由を追い求めることをやめられない。

その先に待っているものが、無限の選択肢がただ広がっているだけの自由の牢獄とも知らずに。

そこは決して解放感があって伸び伸びできるような桃源郷なんかではなく、空虚と孤独感に支配された苦しみが待つだけの世界。

「自由は存在しない」

ミヒャエル・エンデがこの物語を通して我々に伝えたかったメッセージは、ここに尽きるのではないかと私は解釈した。

そしてそう考えると、安易に自由を目指そうなんて思えなくなるだろう。

運命の赴くままに

自由意志は妄想であり、己を喰らう蛇である

盲目こそわれらを導く御手であり、神の慈悲である

と悟ったインシアッラー。

そして、彼は神の意志に導かれるままに生きていくことを決意する。

 

これは現代風に言えば、運命をありのままに受け入れて生きていくことを意味している。

この見解については意見が分かれそうだが、一応科学的には自由意志は存在しないという研究結果もある。

(ただし、完全に自由意志はないと断定できる地点までは来ていないらしい)

自由意志の有無については未来の研究者に任せるとして、一旦自由意志なんてないと認めてしまった上で運命を受け入れるという姿勢は、生きていく上で結構大事な気がする。

なぜなら、全て自分の責任(自由)だと考えながら生きるのはシンプルに辛いから。

人生がうまくいってる時ならまだしも、何をやってもうまくいかない場合においては特にそうだろう。

そこで、「まぁこれも運命のせいだし、仕方がないよな」と開き直れた方が精神衛生上健康的と言えないだろうか。

現実に戻ったインシアッラーは物語の最後、まるで悟りを開いたブッダのように心穏やかに生きていけている描写がある。

それは自身の選択に対する責任を全て棚上げできたことによる身軽さゆえではないだろうか。

 

では、現代人はどうなのかと言えば、自らの選択に対する責任を誰のせいにすることもできず、常に自己責任を要求されているように感じる。

責任を丸投げできたはずの神はすでに死に、不自由な自由を押し付けられている気がしてならない。

しかし、それは本当に自由で幸福なことなのだろうか。

もしかすると、本当に自由の牢獄に入れられているのは我々現代人と言えるのかもしれない。

最後にそんなことを思った。

 

ミヒャエル・エンデ『自由の牢獄』は、自由や運命について深く考えさせられる素晴らしい作品だった。