最善説は劣った思想?ヴォルテール『カンディード』を読んで

はじめに

『カンディード』という小説を読んだ。

「世界はなんて素晴らしい所なのだろう!」と心から信じている人間に、思いっきり冷や水を浴びせるような痛烈さが本書にはある。

理想論を敬遠しがちな現代人には、割と取っ付きやすい内容なんじゃないかと思う。

今回はそんなヴォルテールの著作『カンディード』について語る。

『カンディード』あらすじ ※ネタバレあり

楽園のような美しい故郷を追放されてしまった、まっすぐな心と純朴な気質をもつ“純真な”若者カンディード。恩師パングロスの説く「最善説」の教えを胸に、大地震、戦乱、盗賊や海賊の襲撃など、度重なる災難に立ち向かい、そして最後の最後、ついに一つの真実を見つけるのだが……。引用元:光文社古典新訳文庫

 

無垢な少年が残酷な現実を目の当たりにし、幼少期から固く信じていた「最善説」を捨て去って、新たな哲学を獲得していく。

というのが、本書の大まかなあらすじ。

 

そして、物語の中では「最善説」を盲信する人間の滑稽さが徹底的に描かれている。

その背景には、当時のキリスト教への不信感リスボン地震が影響しているのではないかと言われている。

「信じるものは救われる」とするキリスト教は無力の象徴であり、人間の意志ではどうすることもできない災害は理不尽さの象徴。

つまり、キリスト教が「最善説」であり、リスボン地震が「残酷な現実」というわけだ。

諸説はあるみたいだが、いずれにせよ、本作では甘っちょろい考えの持ち主は徹底的に否定され、酷い目に遭う運命にある。

 

以上が本作の簡単な説明。

それを踏まえて、以下からは本の感想を述べていこう。

大人の階段

カンディードの思考の発達過程は、現代社会における子供のそれとよく似ている。

「社会は素晴らしいところ」と親や大人たちに教えられて育った子供は、成人して社会に出てみて初めて、社会の汚らしさや醜さに気づくことになる。

そのあまりのギャップの大きさに最初は現実を受け入れられないでいるが、社会を生き抜く為にはいつまでも拒否し続けることは出来ないため、子供は次第に妥協していく。

そうやって嫌々ながらも社会に迎合していくことで現代の子供は大人の階段を登るわけだ。

カンディードの辿った思考の段階も、この流れとほとんど同じである。

つまり、この物語はカンディードが残酷な出来事を経験して大人になるというストーリーだとも言える。

そして、そうであるならば、ヴォルテールはカンディードに対して「早く現実を知って大人になれ」と促しているとも言えなくはない。

そのやり方はともかくとして、ヴォルテールのこの主張は正しい。

なぜなら、現実を知らないまま綺麗な妄想の世界の中にいるだけでは、子供はいつまで経っても大人になれないからである。

色々とツッコミどころの多い本作ではあるが、「いつまでも幻想の中に留まっていないで現実を見て大人になれ」というこの部分のメッセージには共感できる。

それでも希望は必要

この物語には希望らしい希望がほとんどない。

一応、カンディードは物語の最後で師から再び最善説を説かれた際に、

 

「お話はけっこうですが」カンディードは答えた。「とにかく、ぼくたち、自分の畑を耕さなきゃ」

 

と、現実に立脚して生きていくことを表明している。

確かにカンディードは、盲目的に「最善説」に縋っていただけの無垢な少年の頃と比べれば成長している。

だからこそ「働いた方がマシだ」と言っているのだ。

だが、果たしてそれでいいのかという疑問も残る。

もっと言えば、それで本当に人生楽しいの?と思ってしまう。

ちなみにそれについてはすでにルソーが指摘済みのようである。

 

「あなたがかくも残酷だとお考えの最善説のほうが私を慰める」というルソーの言葉である。なるほど、ヴォルテールのように現実の災厄を前にして「本当にすべては善なのか」とつぶやきたくなる気持ちはわかる。しかし、だとすると、もはや絶望しか残っていないのか。最善説に対する批判は、「最悪説」(「ペシミスム」は字義通りにはこの意味だ)に行き着くしかないのか。もう少し落ち着いて考えてみた場合、現実にこれほど多くのつらいことがあっても、この世界は最善を目指して作られていると考えたほうが慰めが与えられるのではないか。ルソーはこう言ってヴォルテールに対して不満を漏らすのである。

 

この文章を読んで私の中の違和感は解消された。

結局のところ、必要以上にペシミズムになったところで現実的なメリットはほとんどない。

人生にはペシミズムが必要な場面もあるだろうが、だからと言って最善主義や楽観主義がダメということにはならない。

むしろ、生きる上で希望は慰めにもなるし、役にも立つのである。

 

余談だが、本書と対照的だと思うのがヴィクトール・フランクルの『夜と霧』。

この本の著者も相当過酷な状況に身を置かれているのだが、最後まで希望を捨てずにいられたおかげで生き延びることができている。

どちらも絶望の中での立ち振る舞いについて語っているが、個人的にはこちらの哲学を信じたいという気持ちが強い。

 

さらにルソーは最善主義を別の角度からも擁護している。

ルソーが言うのはこうである。「個人に対する個別的な悪は、全体的な善に寄与する」こともある。ルソーはここで、「個別的」と「全体的」とを分けようとしているのだが、この区別はとても重要だ。ヴォルテールは、「具体的で個別的な悪」、つまり今ここにいる人間にとって現に「悪」と感じられることに目をつけ「最善説」の矛盾を突こうとしているのだが、ルソーによれば、「すべては善なり」というのは、人間にとってのさまざまな個別の「悪」を冷酷に押しつぶすかたちで「あらゆるものが善だ」ということを意味するのではない。具体的・個別的な「悪」は確かにあるにせよ、「最善説」とはそもそも、あらゆるものが「個別的」に善であるか悪であるかではなく、「全体にとって」善であるかを問題とするものだというのである。「全体の保存のためには個人のいくらかの幸福を犠牲にすることがある」とすらルソーは述べている。

どことなく功利主義的な匂いもするが、ヴォルテールの偏狭な主張を視野の広い観点から捉え直した点は素晴らしい。

以上のように、ヴォルテールの主張には一理あるものの意外と穴も多いことが分かる。

そして、最善説を完全には否定し切れていないことも合わせて伝えたい。

まとめ

解説にもあるように、本書は哲学コントして読む分には十分楽しめる書物だと思う。

スピード感があってハラハラドキドキするし、哲学について考えるきっかけにもなる。

ただ、本格的な哲学書としてどうかと聞かれると正直微妙だ。

ヴォルテール入門への取っ掛かりとして読むくらいがおそらくちょうどいいのではないかと思う。