人間中心主義からの脱却。ユクスキュル『生物から見た世界』を読んで

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はじめに

我々ホモ・サピエンスは、つい世界を人間中心に捉えてしまいがちだ。

しかし、どうやらそれは大きな勘違いらしい。

実際には生物には生物特有の世界が広がっていて、人間にはその世界を想像することは出来ても、どうやっても覗くことは出来ない。

『生物から見た世界』はそんな人間の常識を覆す事実を、多数の研究結果と著者の洞察から導き出している。

今回は本書の内容を簡単に説明しつつ、読んだ感想を綴っていきたい。

ダニから見た世界

本書ではまず手始めに、メスのマダニの生態を紹介している。

そうすることで生物が見ている世界の具体的な例を説明しようと試みているわけだ。

以下は、メスのマダニの生態を箇条書きにしたものである。

 

●メスのマダニの生態

・目が無い

・耳が聞こえない

・味覚がない

・表皮全体にある光覚を使って木に登る

・嗅覚によって獲物を察知する(哺乳類の皮膚腺から漂い出る酪酸の匂いに反応する)

・獲物が木の下を通ったら、ダニは哺乳類めがけてダイブする

・獲物に到達したダニは、触覚を頼りになるべく毛のない場所に移動する

・補給地点にたどり着いたダニは、獲物の皮膚組織に頭から食い込んで血を吸う

・血を吸うことができたメスのマダニは子供を産む

・そもそもダニの狩りは成功確率が低い

・しかし、その代わりにダニは18年間絶食しても死ぬことがない(睡眠状態と仮定されることもある)

 

以上のように、ダニの生態は人間のそれとは明らかに違う。

メスのマダニには目もなければ耳もないわけで、狩りの仕方だって異なる。

となれば当然、そこに反映された世界は人間のものと異なった様相を呈していることが容易に想像できるだろう。

本書ではこのことを、ダニにはダニの環世界(環境世界)があると呼んでいる。

この環世界はおそらく著者が最も強調して伝えたい部分で、本書においても重要なキーワードとなっている。

時間や空間の感じ方も生物によって異なる

前項では、生物の生態によって環世界も変わるということを説明した。

だが、これは生態だけに限らず、時間や空間に関しても同じことが言える。

 

われわれはともすれば、人間以外の主体とその環世界の事物との関係が、われわれ人間と人間世界の事物とを結びつけている関係と同じ空間、同じ時間に生じるという幻想にとらわれがちである。この幻想は、世界は一つしかなく、そこにあらゆる生物がつめこまれている、という信念によって培われている。

時間はあらゆる出来事を枠内に入れてしまうので、出来事の内容がさまざまに変わるのに対して、時間こそは客観的に固定したものであるかのように見える。だがいまやわれわれは、主体がその環世界の時間を支配していることを見るのである。これまでは、時間なしに生きている主体はありえないと言われてきたが、いまや生きた主体なしに時間はありえないと言わねばならないだろう。

「瞬間の連続である時間は、同じタイム・スパン内に主体が体験する瞬間の数に応じて、それぞれの環世界ごとに異なっている。瞬間は、分割できない最小の時間の器である。なぜなら、それは分割できない基本的知覚、いわゆる瞬間記号を表したものだからである」

 

生物によって時間の流れや時間という概念の捉え方が違うということを、本書ではいくつかの研究結果から導き出している。

また、空間に関しても同様。

本書では空間を3つの要素に分けて説明している。

 

1.作用空間(動作によって認識される空間のこと。三次元。

2.触空間(ものに触れることで認識される空間のこと。)

3.視空間(視覚によって認識される空間のこと)

 

夜行性の動物の場合は、主に触空間に頼って生きている。

人間や魚の場合は、三半規管を使うことで作用空間を認識している。

というように、生物によって空間の捉え方は異なる。

そしてそうなれば当然、生物の前に広がっている空間も人間のものとは違うことが予想される。

人間は(特に)時間や空間に関して、全ての生物に等しく認識されていると思い込んでいるが、実はその前提すら間違っている可能性があるらしい。

人間同士でも環世界は異なる

ここまで生物ごとの生態・時間感覚・空間認識によって、それぞれの環世界が異なっていることを説明してきた。

本書の説明でさらに驚きだったのは、人間同士でも環世界が異なっているということ。

 

人間の環世界の多様性を確かめる最も簡単な方法は、知らない土地をその土地に詳しい人に案内してもらうことである。

なじみの道は個々の主体によってまったく異なっており、したがって典型的な環世界の問題だといえる。なじみの道は空間の問題であり、主体の作用空間と同時に視空間にも関係している。

故郷はまさに環世界の問題である。なぜなら、それはあくまで主観的な産物であって、その存在についてはその環境をひじょうに厳密に知っていてもほとんどなんの根拠も示せないからである。

 

人間は慣れ親しんだ道や故郷に対して特別な感情を抱く。

ある人にとってはなんてことのない場所であっても、ある人にとっては特別な意味を持っていたりする。

それはつまり、同じ場所であっても人によって見えている世界が異なるということに他ならない。

これも言ってしまえば環世界の問題だと著者は説明する。

生物は主観的な世界を生きている

以上のことから、著者はすべての生物は主観的な世界を生きていると結論付けている。

本当はもっと理論的な部分も解説されているが、今回は尺の都合で省略させてもらった。

1から10までちゃんと理解したいという方はぜひ本書を手に取ってほしい。

 

話を戻そう。

 

こういうわけで、いずれの主体も主観的現実だけが存在する世界に生きており、環世界自体が主観的現実にほかならない、という結論になる。主観的現実の存在を否定する者は、自分自身の環世界の基盤を見抜いていないのである。 

 

生態・空間・時間・各自の経験(もとい習性。本書では探索トーンと呼んでいる)によって世界の様相は変わるのだから、生物にとっての世界は主観的なものにならざるをえない。

それがよく分かる例として、著者はカシワの木(魔女の顔に似たこぶの付いた)を挙げている。

 

●それぞれの生物にとってのカシワ

木こりにとってのカシワ→材木としての価値があるかどうかが全て。魔女の顔には特別注意は払われない

少女にとってのカシワ→恐ろしい悪魔のような存在

根っこの間に巣穴をかまえているキツネにとってのカシワ→悪天候から身を守るための屋根

同じく住居をかまえるフクロウにとってのカシワ→キツネと同様。ただし、フクロウにとっては根っこは認識の外にあり、重要なのは枝の方

小鳥にとってのカシワ→巣を支えるためのもの

アリにとってのカシワ→足場を除いてほとんど認識されないもの

 

という具合。

 

その居住者たちの何百という多種多様な環世界のすべてにおいて、カシワの木は客体として、ときにはこの部分でときにはあの部分で、きわめて変化に富んだ役割を果たしている。同じ部分があるときには大きく、またあるときには小さい。その材はあるときは堅く、あるときはやわらかい。あるときには保護に役立ち、あるときには攻撃に役立つのである。

それらの特性はすべて、環世界というものを担い守っている一つの主体の部分部分にすぎない。これらの環世界の主体たちは、いずれもそれらの特性を認識することはないし、そもそも認識しえないのである。

 

カシワの木を1つとってみてもこの有様である。

これが世界全体ともなると、生物ごとに全く異なった、そして主観的な環世界が映し出されているに違いない。

というわけで以上が本書の大枠の主張となる。

人間中心主義、自己中心性からの脱却

『生物から見た世界』には、人間の常識を根底から覆す力がある。

そんな本書を読んでみて、私が最も強く感じたのは、自分の物差しで他者を推し量ってはならないということである。

人間中心の物の見方、自己中心的な物の見方をしていては、いつまでも経っても本当のところは見えてこない。

本書のように人間以外の生物の立場にあえて立ってみることで、初めてそれぞれが見ている世界を理解することが可能になる。

何もこれは生物学に限った話だけではなく、日常生活や人生においても同じことが言えるはずだ。

他者を理解しようとする際には自分の考えを押し付けたりせずに、まずは相手の立場に立って考えてみる。

そうすることで初めて、他者と良好な関係を築いていくことが出来るだろう。

また、もし仮に良好な関係を築けなかったとしても、人には人の環世界があるということを理解しておけば、必要以上に相手の世界に入り込もうとはしなくなるはずだ。

本書からは生物から見た世界だけではなく、自分から見た他者という存在についても同時に学べたような気がする。